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The Rape Of Vietnam
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 今月の15日にも、「慰安婦問題の根底にあるのは天皇制メカニズム」などと言う、基地外の向う側に行ったような妄想を披露し、その基地外ぶりを遺憾無く披露された南朝鮮共和国のキムチさん達ですが、またもや、それに匹敵する、或いはそれ以上の妄言を披露された模様です。
世界青少年連帯を望んで

 去る13日、8・15 光復を迎え 「平和を愛する韓国青少年歴史会」(以下歴史会)が立てた 11名の 「日本軍慰安婦抗議訪問団」が日本を訪問した。

 訪日中のた日程の中には、日本の青少年たちと総理に対する所信朗読が含まれていたが、その骨子はそれぞれ「他国人たちに苦痛を与えた日本歴史に対して憶えることと真正な平和のために戦争に対して反省すること」を、そして「日本軍戦争被害-生存者女性問題に対して心より謝罪することで日本が経済大国だけではなく良心大国、平和大国の主軸になること」を促すものだった。

戦争被害・人権問題もっと関心を

 歴史会青少年たちの日本訪問に対する情報は、その日夕方TVと新聞、インターネットを通じて詳しく報道されたが、報道内容と係わってインタビューに応じた数人の青少年たちは、日本軍戦争被害-生存者女性問題に対して何も分からないと語り、歴史会青少年たちの真価を現わしていた。試験成績や芸能人にだけ沒頭した私の青少年時代を振り返えても、歴史会青少年たちの活動は意味ある行動に間違いない。

 ところで、これらの報道に接して、ベトナム青少年たちもベトナム戦間韓国兵士らが現地女性たちと一緒に生んだが 「捨てた」子供たちの問題で我が国を抗議訪問することもできるという思った。もちろん、日本軍戦争被害-生存者女性問題は日本政府が体系的で具体的に強制した結果で、ベトナム戦争孤児問題は韓国軍人とベトナム女性個人の意思決定による事だ、という差がある。しかし、韓国被害-生存者女性たちと、ベトナム孤児とその母親たち望まない形で自分たちの生の一部が他人によって 「作られた」と言う共通点を持っている。

 大人たちが行った事で、青少年たちが国境を出入りしてお互いの過ちを思い起して謝罪を求めることは、見ても想像したり決まりが悪い事だ。彼らが、既成世代よりもう少し開かれた心で会って交流し、人類平和の為に連帯するのを希望するからだ。その為に、青少年たちは民族と国籍を超越し、日本戦争被害-生存者女性と、ベトナム戦争孤児とその母親たちに加えられた人権侵害という共通的問題にも関心を持ったらと思う。

 そして、韓国とベトナム青少年たちが加害国の青少年とリーダーに過ちに対する記憶と反省を促すより、「男性たちの性的欲望は必ず解決されなければならない」と言う信頼のため全世界で起きる幾多の人身売買と人権染躪問題解決の為に連帯することができないか。

開かれた心で疎通、平和の達成を

 ベトナム戦争の間、アメリカ兵士らがベトナム女性たちとの間に生んだが捨てて行った子供達は約60万名と推定されると言う。しかし、この子供達は、国際赤十字社連盟を通じて皆アメリカに連れて行かれた。彼に比べて我が政府は、韓国人の「父親」らが捨てて来たベトナム孤児達が何人かも分からない。この為にベトナムを旅行した私の知人たちは、ベトナム人々に会う度にすまなくなって韓国人を父親とした人々がたくさんいると知られた都市をわざわざ訪問したりする。

 勿論、韓国にもアメリカ人を父親とする捨てられた子供たちは数えきれない程多い。このような脈絡でアメリカ、ベトナム、日本、そして韓国青少年たちは、勿論、世界のすべての青少年たちは、どんな個人の性的欲望のため、彼とまったく同じな人格を持った人々が道具のように活用されて捨てられてはいけない、という彼自明な真理実現のために連帯することができないか。

 これが、私が歴史会青少年たちが次の段階に主導したらと望む課題だ。「青少年の皆さん、大人たちが課題だけ渡して申し訳ありません」- 大韓民国希望言論!

(2007年08月19日 京郷新聞)

 糞長いので適当に要約すると、まず、キムチ青年団が8月の15日に我が国を訪れ、足りない脳味噌で我々に対して居丈高に説教しました。

 しかし、キムチどもにも、ベトナム戦争孤児という問題があり、この問題で同じような謝罪を求める行動に出られる事が憂慮される事に気付きました。

 しかし、「慰安婦問題」は日帝が強制した結果の出来事だが、ベトナム戦争孤児は韓国兵と現地女性の自由意志に基づく結果だ、と屁理屈を捏ね始めます。

 更に、この無責任キムチどもは、自分達は我が国に得意の「謝罪と賠償」を求め続けておきながら、ベトナム戦争孤児が謝罪を求めて行動するのは決まりが悪いので、開かれた心で交流して欲しい、などと寝言をほざき始めます。

 また、韓国にも米国人を父親に持つ孤児が多くおり、「ウリたちだけが悪い訳じゃ無いニダ」と言い始めます。

 そして、最後の「青少年の皆さん、大人たちが課題だけ渡して申し訳ありません」という台詞は、要するに、「我々はもう知らんニダ。後は若い者たちで解決しろニダ」という事です。

 反省しているように見せ掛けながら全く反省せず、寧ろ居直るという典型的なキムチパターンだと言えるでしょう。

 以上を踏まえた上で、下記の記事を御覧下さい。
偏見なのか、見抜いたものなのか
米軍政治顧問ジェームズ・マックの報告書「クアンナム省駐留韓国軍は無能・腐敗・残酷」


(写真/銃をむかえたまま池近所で発見されたフォンニー・フォンニュット村女性ら。この写真を撮った「ボーン」は「中で身ごもった女性は近くの道路で銃が当たったように頭の前の部分が飛んで行っている」と書いた)

「韓国軍の戦闘力は他軍より強くて、恐ろしい。 韓国軍とは接戦するな。 韓国軍兵士たちは残忍だ。 韓国軍は弱点を探して、奇襲したり、狙撃をして戦闘力を弱化させる」

あるベトナム戦に参戦した勇士は、最近手記で、ベトナム軍司令部が韓国軍をこのように評価したと明らかにした。 それに沿えば韓国軍は「勇敢で、素晴らしくて、親切で、情け深くて、礼儀正しい”軍隊であった。 このような事実はまた「100人のベトコンをのがすことがあっても1人の良民を保護しなさい」という駐ベトナム韓国軍司令部の一貫した指揮方針でも立証されるということだ。 またベトナム文化を理解できなかった米軍とは違って、同じアジア人として韓国軍はベトナム人の情緒を正確に貫いていたので対民間支援事業課軍事活動等を通して、彼らの感動を引き出すことができたという。

皮肉が混ざった否定的評価

しかし「ハンギョレ21」が入手した米国立文書記録保管所のベトナム戦関連文書らで米国が評価した韓国軍の姿はこれとは程遠い。 米軍は文書で韓国軍に対して「戦闘力が落ちるのはもちろん駐越米軍、南ベトナム軍隊など連合軍に非協調的であったし、ベトナム民間人らを相手に残酷行為をし、闇市取り引きなど各種不法行為を日常的に行った」という結論を下している。

米軍は韓国軍に対して全般的に否定的な評価を下しており、部分部分では皮肉まで混ぜて、非難している。

一体、こういう正反対な評価がどうすれば可能なのだろうか。

派越韓国軍に対する米軍側のこのような評価は当時の状況を厳密に客観的に表現したと見られはしない。 またこのような評価には韓国軍に対する人種的偏見が溶けている余地も多い。 特に何より駐越米軍が自分たちの軍事的・政治的失策を韓国軍に上書きするための方便で悪用された可能性もある。

しかし「派越韓国軍戦史」「海兵戦闘史」等、韓国側の公式的な歴史記録には全く登場しない韓国軍に対する米国側の評価という点でこれをありのまま公開するのは、ベトナム派兵に対する歴史的評価に新しい一頁を相次ぐ意味があるというのが「ハンギョレ21」の判断だ。

韓国軍に対する評価は1968年2月12日から1969年4月15日までの1年2ヶ月の間、ダナン市に派遣された米軍政治顧問ジェームズ・マックが駐越米大使館政治担当参事官ニコラス・ソーンに送る長文の報告書に登場している。評価対象部隊では当時ベトナム クアンナム省地域で作戦を行った韓国軍海兵第2旅団に合わせている。

米軍は大きく△韓国海兵第2旅団の戦闘力および戦闘態度△駐越米軍と南ベトナム軍隊との協力関係△ベトナム民間人に対する残酷行為△闇市取り引きなど戦闘と関係がない不法行為、などを主に扱った。

先に韓国軍の戦闘力に対して米軍は「ベトコンなど敵に対する主要軍事行動を主導的に取ることを敬遠する」と分析した。1968年3月18日、報告は「韓国軍は定期巡回査察と待ち伏せをする為、司令部を離れることを敬遠し、ベトコンの待ち伏せを非常に恐れ、(ベトコンが)夜に現れる状況に対応することを避けた」と書いた。 同じ月25日、報告では「クアンナム省諮問団が(ベトコンに対する)捜索と破壊活動を要請したがこれを無視した」という言及も登場する。

「韓国軍よりベトコンの方がまだマシだ」


(写真/米軍政治顧問ジェームズ・マックの報告書は「韓国軍に対するベトナム人の憎悪心は非常に深刻だ」と診断する)

米軍はまた、韓国軍が駐越米軍と南ベトナム軍隊との協力も正しくすることができなかったと評価している。 連合軍の間になされなければならない情報無料交換要請でも、南ベトナム政府官僚らで構成された省諮問団の勧誘や要請に対しても無視する態度を見せたということだ。 南ベトナム政府に対する韓国軍の姿勢も問題視している。

「多くの韓国軍兵士らが南ベトナム政府が自由で自律的な政府というものを理解できずにいる、という幾つかの証拠がある。大部分の韓国軍兵士は南ベトナム警察と関連した法律を無視する。 韓国軍責任戦術地域で、南ベトナム軍警察の交通統制権限と道路遮断機能を奪い取ってしまうことがその一つ例だ。…金然翔准将も(連合軍らが参加する)指揮官会議に含ませなければならない。これは彼に南ベトナムの主権に対する強い認識を持たせることができる」(1969・7・9)

韓国軍のベトナム民間人に対する残酷行為は最も深刻に、そしてしばしば登場する主題だ。

2ヶ月の間に、韓国軍偵察隊が村で発生した小さい銃撃戦に対する報復で捕虜を殺害した事件が最低でも三度発生した。 最も不名誉である事件は1968年2月12日フォンニー(Phong Nhi)村で起きた。 そこでは79人(または69人)の女性と子供たちが死に至った。 ベトナム農民らは韓国軍を非常に恐れた。多くの人々は韓国軍よりベトコンの方がまだ良いと話した」(1968・3・18)

韓国軍部隊がディエンバン(Dien Van)県に駐留し、彼らは私たちの地域で作戦を遂行した。 私たちの村に入ってきて、住民たちを家で引き出して銃を撃ち、人々を殺して家族らのからだを切るなど野蛮な行為をした。韓国軍部隊は死体をそのまま置いたり隠してその現場を離れた」(1969.2)

米軍と南ベトナム軍の首脳部らは、韓国軍がベトナム民間人を苛酷に扱うのは「ゲリラ戦の政治的な面を理解しなかったことだ」という分析も出している。 これと共に、韓国軍の残酷行為による結果として、ベトナム住民を相手にした心理戦でも失敗したと評価している。

「韓国軍に対するベトナム人の憎悪心は余りにも深刻で、住民たちはベトコンが設置した地雷や彼らが犯したテロまでも度々韓国軍のせいにしている。 ベトコンの政治的扇動活動によって『朴正煕傭兵』というもっともらしい名前を得た韓国軍らは、とうてい見込みはないが、万一、彼らが偉大な戦士または人道主義者に急変するにしても、住民たちが受けた心の傷は絶対消されないだろう」(1969.4.23)

避難民処理無原則な対応


(写真/ベトナム戦期間中米軍水陸両用車とともに協同作戦を行う韓国海兵ら)

「ベトナムの役人達は、ベトナムの民間人らの間に広まっている反韓感情の深く強烈な為、何度も警告を送った。…実状として、韓国軍が同盟軍として行動するよりはアジアの占領軍とも一緒に行動する状況が続いた為、ベトナムの役人たちの警告は効果をみる可能性がなかった」(1969.4.25)

米軍は韓国軍の勇敢性に対しては肯定的な表現をしているが、その勇敢性やはり残酷行為と関連になって使われている。 例えば「もちろん私たちは韓国軍の勇敢性を高く評価する。『しかし』、私たちが何何事件を通じてみたように、韓国部隊は共産主義者を殺すために血眼になっており、罪のない民間人らの死と損傷には無関心だった」という図式だ。

避難民処理に対する無原則な対応も、批判の種として登場する。「韓国軍の人口統制方法は、むしろ韓国軍責任戦術地域中でベトコンに対する同調者を増加させる要因になった。…韓国軍は作戦が不必要な地域でも避難民を作り出す。 最近ではホイアン(Hoi An)近くのカム ハイ(Cam Hai)とカムアン(Cam An)村で韓国軍がベトナム農夫らを特別な理由なしに移動させた。 単純に彼らの責任戦術地域を増やして農夫らを人口が集中した都市地域で密集させるためにだったが、これは非常に深刻な問題だ。 再定着のために使われる領土が減るためだ」(1968.3.18)

闇市に物を売ったり、物を公然と盗むなどの「モラルハザード」は、報告書で何度も言及される常連メニューだ。

韓国軍の闇市運営はディエンバン地区、ヴィンスアン(Vinh Xuan)とライナイ(Lai Nghi)村で真っ最中進行中であることが明白だ。 私たちはこの村らで韓国軍らがソーダ水、Cレーション、米を大規模に売っているという報告書を絶えず受けている。 1969年3月13日の朝、私たちは韓国ジープがライナイの村に現れたという事実を伝え聞いた後に村を訪問した時、ベトナム住民たちが村に駐車されている韓国軍ジープでビールとソーダ水箱をもってくるのを目撃した。 ジープを調査しながら、私たちは後席が全部ビールとソーダ水ボックスで満たされているのを発見した」(1969.3.14)

韓国海兵第2旅団所属兵士らが捕獲した米を村の人々に売ったという報告書を受けた。米の価格がとても高く、村の人々が買わないようにし、韓国軍兵士らは南ベトナム軍と民兵隊を相手にこの米を売ろうとした。彼らが拒否するや、韓国軍らは民兵隊らが基地に帰るできないようにした。同じ日、韓国軍らは駐越米軍司令部基地に訪ねて来て、管轄バンカー近所に手榴弾を投下すると威嚇し、装填した拳銃を取り出し、手榴弾を爆発させる、と脅迫した。この事件とかかわった韓国軍兵士らは大部分は酒に酔った状態であった」(1969.3.16)

闇市での活躍


(写真/灰になったフォンニー・フォンニュット住民.この状況は「ハンギョレ21」が取材した生存者らの証言と一致する)

闇市運営と関連してみて(1969.1.30)は「韓国軍が最も成功的に大きな成果は、事実上(闇市等を通して)経済的であった事」だったと皮肉っている。

これと関連して、韓国軍らがベトコンらを相手に捕獲した米を処理する過程を詳しく記録した大きな課題もある。 文書によれば、1969年1月、韓国海兵第2旅団はベトコンが隠して置いた225トンの米隠匿処を発見し、米を部隊で後送した。クアンナム省省長は韓国軍に捕獲した米一部を避難民に食べさせるのに使えるように要請した。 韓国軍は、どこに米が必要なのかを旅団に報告するべきで、韓国軍が住民たちに直接米を配布すると明らかにした。その後第2旅団は避難民らに食べさせる目的で300袋の米を住民たちに送った。 しかし韓国軍は空の包装袋300個が返還される時まで配布を中断し、代わりにこの米を、闇市でベトナム政府の公式価格よりとても低い価格で売ったということだ。

物を盗んだり奪う韓国軍を描写した大きな課題も多い。「1969年3月18日、韓国軍部隊境界線中に侵入した豚をベトナム農夫が連れていこうとしたとき、韓国軍はその豚を戻すことを要求した」「1969年3月17日、スェンクアン(Xuyen Quang)村にあった韓国軍らはビールを飲み、お金を支払うのを拒否した。 彼らはまた、その店で仕事をする少女から、お金を盗んだという」「韓国兵士たちがラジオ・ビール・牛肉・チーズ・鶏肉などを盗んだ」とも出てくる。

米軍は韓国軍の問題点を解決する為、かなりの過激な提案をしている。 すなわち、韓国軍を後方に送ろうという主張だ。「政治的・軍事的状況が許諾するならば韓国海兵第2旅団は平正地域でない地域で再配置されるべきで、少なくとも同等な規模の他の旅団で交替させられなければならない」(1968.7.27)とか「ベトコンが100%掌握しており、誰でも手当たり次第殺すことができる場所を韓国軍の責任戦術地域にしよう」(1969.4.23)という主張まで出てきている。

米軍は結論として「上級司令部が韓国軍の過去形態を考慮し、この地域の平正作戦に他の連合軍軍隊を大々的に投じるのを即刻関心事項としない限り、状況が改善されないだろう」と見通した。

蔡命新総司令官の反論



(写真/お母さんとともに醜い姿で死んだ子供(最頂上).米軍らが死骸を収拾している(下). 作戦に参加した将校らはこちらが米軍姉妹部落だったと回顧した)

しかし当時派越韓国軍総司令官だった蔡命新(74・予備役中将)氏は「ハンギョレ21」取材陣と会った席で米軍側のこういう評価を正面から反論した。 蔡氏は「ベトナム戦の性格から韓国軍に独自の作戦権行事を許すのかどうかなど、大小の問題を置いて駐越米軍と駐ベトナム韓国軍の間には深刻な意見対立があった」としながら「(この為に)米軍が批判的であることはもしかしたら当然の事」だったと話した。 彼はまた、「米軍がアジア文化圏を理解できないばかりか、ゲリラ戦の本質に対する理解が不足したせいで、後には韓国軍が採択した戦術概念などを全面的に受け入れたりもしていた」と付け加えた。

戦闘力問題に対して彼は「海兵隊の場合、積極的な戦闘体制を整えることができなかったということは話にならない」として「むしろ、参戦初期、性急に攻撃に重点を置いた挙句、ベトコンらの待ち伏せや奇襲攻撃に多数が死亡した事件などを虚偽報告する事例も発見されており、3人以上の敵軍を追撃する時は司令官の許可を受けろ、との無理な指示を与えなければならないほどであった」と反論した。

彼はしかし韓国軍が闇市取り引きなどを行ったなどの米軍側指摘に対しては「戦場で一般的に現れるモラルハザード現象」としながらも、韓国軍にもこのような不法行為があったという点を認めた。

キム・チャンソク記者kimcs@hani.co.kr

(2000年11月15日 ハンギョレ21)


 現場で戦っていた将校が反論するのは当然の話として、ここで重要なのは、この報告をしているのが「同盟軍」である米国であるという点です。

 表現の大小は兎も角として、真面目な話、余程に酷いもので無い限り、同盟軍の行動をここまで酷評する事など、普通に考えて、余りあり得る事では無いと言えるでしょう。

 阿呆の朝鮮人が無理矢理に慰安婦を引き合いに出しているついでに、この対比として、大東亜戦争時、米軍が「敵国」であった日本軍の慰安婦の様子を書いた報告書を引用します。
日本人捕虜尋問報告 第49号

尋問場所 レド捕虜収容所
尋問期間 1944年8月20日~9月10日
報告年月日 1944年10月1日
報告者 T/3 アレックス・ヨリチ

捕虜 朝鮮人慰安婦20名
捕獲年月日 1944年8月10日
収容所到着年月日 1944年8月15日

はじめに
 この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
 この報告は、これら朝鮮人「慰安婦」を徴集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
 「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上輸送したと伝えられている。

徴集
 1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性を徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡金を受け取った。
 これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
 これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここからビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それらの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。

性向
 尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準からいっても白人的基準からいっても、美人ではない。とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けたために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。

生活および労働の状況
 ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営んだ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビルマ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

料金制度
 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

  1. 兵 午前10時~午後5時 1円50銭 20分~30分

  2. 下士官 午後5時~午後9時 3円 30分~40分

  3. 将校 午後9時~午前0時 5円 30分~40分

 以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで引き下げた。

利用日割り当て表
 兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安所が使用した利用日割表は、次のとおりである。
  • 日曜日――第18師団司令部。

  • 月曜日――騎兵隊

  • 火曜日――工兵隊

  • 水曜日――休業日、定例健康診断

  • 木曜日――衛生隊

  • 金曜日――山砲兵隊

  • 土曜日――輜重隊

 将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
 兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれていた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

報酬および生活状態
 「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これは、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
 さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離されたのち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえなくなることはなかったという点が注目される。

日本の軍人に対する反応
 慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさしい人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させることができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応
 慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいるところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうである。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
 すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのところへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女たちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にするな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
 しばしば兵士たちは、故郷からの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などがいっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。

軍事情勢に対する反応
 慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようである。しかし、注目に値する若干の情報がある。

 「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかった。」
 「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかったから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」 

 ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとした。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たちの一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうである。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

退却および捕獲
 「慰安婦たち」が退却してから、最後に捕虜になるまでの経緯は、彼女たちの記憶ではいささか曖昧であり、混乱していた。いろいろな報告によると、次のようなことが起こったようである。すなわち、7月31日の夜、3つの慰安所(バクシンロウはキンスイに合併されていた)の「慰安婦」のほか、家族や従業員を含む63名の一行が小型船でイラワジ川を渡り始めた。彼らは、最後にはワインマウ近くのある場所に上陸した。彼らは8月4日までそこにいたが、しかし、一度もワインマウには入らなかった。彼らはそこから、一団の兵士たちのあとについて行ったが、8月7日に至って、敵との小規模な戦闘が起こり、一行はばらばらになってしまった。慰安婦たちは3時間経ったら兵士のあとを追って来るように命じられた。彼女たちは命令どおりにあとを追ったが、結局は、とある川の岸に着いたものの、そこには兵士の影も渡河の手段もなかった。彼女たちは、付近の民家にずっといたが、8月10日、イギリス軍将校率いるカチン族の兵士たちによって捕えられた。彼女たちはミッチナに、その後はレドの捕虜収容所に連行され、そこでこの報告の基礎となる尋問が行なわれた。

宣伝
 慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことはあったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいなかった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しかし、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。

要望
 慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを確かに聞いた。
 彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

(アメリカ戦時情報局心理作戦班『日本人捕虜尋問報告』第49号)

 朝鮮人が言うように、米国人が根強い「人種的偏見」を持っていた事は確かなんだろうとは思いますが、この「憎き敵国」である「日本」に関して書いた報告書を読めば、少なくとも状況を冷静に判断し、見たまま、感じたままを書く能力が欠如するまでには至っていない事は明らかだと言えます。

 まさか、「敵」を贔屓目に書き、「味方」を偏向してまで襤褸糞に書く程、米国人は頭はイカれてはいないでしょうから。

 更に、この米軍の報告書が「人種的偏見」に基づく「偏向」では無く、ある程度以上は真実だと裏付けるものとして、下記のようなものがあります。
私の村は地獄になった

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた

 今から33年前の1967年4月1日。グエン・バン・トイはびくびくしながら、ベトナム中部フーイェン省の水田で働いていた。
 当時、この地域では韓国軍が大規模な作戦を進めていた。韓国兵は農民を力ずくで追い立て、南ベトナム政権の支配下にあった沿岸部に無理やり移住させていた。
 だが、多くの村人は移住を嫌がった。トイのビンスアン村を含む5カ村からなるアンリン郡の農民も、先祖代々の土地を捨てるのは気が進まなかった。
 トイが農作業を続けていると、いきなり機関銃の銃声と手榴弾の爆発音が響いた。音がしたのはビンスアン村の方角。トイはあわてて身を隠し、あたりが暗くなるまで動かなかった。
 村に戻ったトイが目にしたのは、身の毛もよだつ光景だった。家は黒焦げになり、少なくとも15人の村人が血の海に倒れていた。多くの遺体は銃剣で腹を切り裂かれていたと、トイ(71)は言う。
 そのなかには、トイの妻と3人の子供の遺体もあった。生後4日の末の子は母親に抱かれたまま、背中を撃ち抜かれていた。4歳の娘ディエムは銃弾を5発受けていたが、奇跡的に命をとりとめた。
 トイは遺体を近くの防空壕に運び、入り口を泥で覆った。ここが、そのまま墓になった。トイも他の村人も、「あまりに悲しすぎて」犠牲者を改葬する気にはなれなかったからだ。

理由なき無差別の殺戮

 韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。こうした残虐行為のねらいは、ベトナム中部の3省(ビンディン、クアンガイ、フーイェン)から農民を移住させて人口を減らし、ベトコン(共産ゲリラ)の勢力伸張を阻止することにあったようだ。
 現地の自治体当局者によると、立ち退きを拒否した人々は、韓国軍の手で組織的に惨殺されたという。しかも犠牲者の多くは、老人や女性、子供だった。
 歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。
 生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。
 グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。
 当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。
 韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。トアイはとっさに頭を隠した。
 硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。
 防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。


見つかったのは肉片だけ

 「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」
 こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。
 チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。
 それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」
 グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。
 そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

「首を切り落としてやる」

 虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。
 「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる
 ベトナムで虐殺行為を犯したのは、韓国軍だけではない。アンリン郡から海岸沿いに北へ向かえば、68年に米軍部隊が500人以上の村人を虐殺したクアンガイ省ソンミ村がある。
 それでも戦争体験をもつフーイェン省の村人の間では、米兵の評判は必ずしも悪くない。地方公務員のファム・トゥ・サン(47)は66年のテト(旧正月)のとき、米兵と一緒に遊んだりチューインガムやキャンディーをもらったことを今も覚えている。
 だが米軍はこの年、フーイェンから引き揚げ、代わって韓国軍がやって来た。それから「67年のテトを迎えるまで、韓国軍は殺戮を続けていた」と、サンは語る。「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」と、今は地元の退役軍人会の会長を務めているチャムも言う。
 アンリン郡の村人によれば、韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的だった。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから、殺すケースが多かったからだ。
 こうした残虐行為が明るみに出てきたことに、ベトナム政府は神経をとがらせている。
 虐殺があったこと自体は、政府首脳も承知している。だがベトナム当局は、虐殺事件の報告書が国内で発表されることは望んでいない。友好関係にある韓国政府はもちろん、ベトナムに莫大な投資を行っている大宇や現代、三星といった韓国財閥の不興を買うことを心配しているからだ。

補償より謝罪の言葉を

 さらに政府当局には、観光客としてベトナムを再訪する韓国の元兵士が増えている状況に水を差したくないという思いもある。だが、韓国軍の残虐行為を目の当たりにした地元の当局者は、観光や経済発展のために真実を隠すべきではないと考えている。
 地元が望んでいるのは、韓国政府の公的な釈明だ。たとえば韓国側から謝罪や罪を認める発言があれば、両国の絆はむしろ強まると、地元の人々は考えている。
 「韓国軍は、この地域にかつてない災厄をもたらした。犠牲者は銃を持てない老人や女性、子供たちだ」と、フーイェン省のある当局者は言う。「私たちが望んでいるのは、物質的な補償ではない。それよりも共感と友好の姿勢を示してほしい。犠牲者が過去を忘れられるように
 韓国軍のために流された罪なきベトナム人の血の量を考えれば、なんとささやかな要求だろう。

(ニューズウィーク日本版 2000年04月12日号)


 軍の報告書という「明確な形としての証拠」があり、ベトナム人被害者の「証言」を見事に「補強」する形になっています。

 阿呆のサヨクと基地外の朝鮮人は、これを「有罪」と呼ぶのだと覚えておくように。

 まあ、それは兎も角として、こういう残虐非道極まりない状況の中で、不幸にも「望まれない形」で生まれてきた「ライタイハン」に対して、それは両者の「自由意志」の結果で、お互いの為に「開かれた心で疎通」し、世界の平和の為に貢献しようなどとは、余りにも調子が良すぎて嗤う事すら出来ない程だと言えるものです。

 日本人は覚えておく必要があると言えます。

 これが朝鮮人、「This is Ugly Korean」だと言う事を。

 連中のこういう姿を直視せず、日韓友好だの日朝友好だのとほざいている人間は、純度180%の白痴かフォースの韓国面に墜ちた売国奴のどちらかだと言えるでしょう。

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